サバイバル日和

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西郷隆盛に会いに行く。桜の散った上野公園を散策しました。

こんにちは。

今日は仕事帰りに、遠回りをして、上野公園に寄り道してきました。何をしに行ったかというと、西郷隆盛の銅像が見たかったからです。

今まで、じっくりと西郷像を見たことがなかったこともありますが、いわくつきの西郷隆盛の顔を見たかったからです!

 

西郷隆盛像

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西郷像は、1889年(明治22年)に、大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって「逆徒」の汚名が解かれ、薩摩藩出身者が中心となって建設計画が始まり、1898年(明治31年)に建立されました。

いわく?ですが、西郷の写真が残っていないため、1870年(明治8年)に来日したイタリア人画家、キヨッソーネが、西郷隆盛の弟、従道と、従妹の大山巌をモデルに、想像で描いた肖像画を元に、像が作られており、想像の西郷隆盛となっています。また、西郷夫人が銅像を見て「うちの主人はこんな人じゃなかった」と言ったとも伝わっており、何とも謎が多い銅像です。西郷の写真がなぜないか?の有力な説は、以前ご紹介させて頂きました。


上野恩賜公園

上野公園の正式名称は、上野恩賜公園といいます。恩賜(おんし)とは、天皇(皇室)からの贈り物と言った意味です。江戸時代、東叡山寛永寺の境内だったものが、1882年(明治15年)に皇室御用地として宮内庁の管轄になり、その後、1924年(大正13年)に、天皇婚儀の記念に、宮内庁管轄から、東京府に下されたので、恩賜公園となってます。

 

ボードワン博士

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ボードワン?誰それ?なのですが、上野公園生みの親です。

江戸時代に三代将軍、徳川家光が、江戸城の北東の方角(鬼門)を封じるために、この地に東叡山寛永寺を建てました。以来、寛永寺は将軍家の墓所となりましたが、戊辰戦争で、寛永寺に立て篭った旧幕府軍の彰義隊を、新政府軍が包囲殲滅したため、一帯は焼け野原となりました。

1870年(明治3年)、医学校と病院予定地として上野の山を視察した、オランダ人医師、ボードワン博士が、公園として残すよう日本政府に働きかけ、その結果1873年(明治6年)に日本初の公園に指定れました。このことで、ボードワン博士は、上野公園生みの親と言われています。(東京府の公園に指定され、その後、宮内庁管轄へ。)

 

旧寛永寺 五重塔

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上野動物園内にあります。上野東照宮から撮影。

1631年(寛永8年)佐倉城主 土井利勝の寄進により建立されたが、1639年(寛永16年)に火災で焼失し、同年すぐに再建されたものが現在のもの。明治時代に、神仏分離令により、全国の神社所有の仏教施設の五重塔が破壊されましたが、東照宮の宮司の機転により、寛永寺の所属であると国に申し出て、東照宮五重塔は、寛永寺五重塔として取り壊しを逃れました。

 

※神仏分離令・・・平安時代以降、仏教が神道を取り込む形で発展し、神社は仏教施設、仏閣は神社を域内に持っていたりしましたが、明治政府が明治天皇を中心として、国家を統制していくため、神道と仏教を明確に分けるように通達したため、全国で神社内の仏教施設が破壊されました。

 

その他、広い敷地に世界遺産になった国立西洋美術館や、博物館など、さまざまな見所があり、仕事帰りに立ち寄った程度では回りきれませんでした。最後に不忍池で見つけた変なもの。蜂の巣?

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ハスの花托(かたく)=雌しべです。では!